昭和四十八年八月二十一日 朝の御理解
御理解第三十七節
「行きておる間は修行中じゃ。ちょうど、学者が年をとっても眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞ。」
勿論修行中じゃとおっしゃるのは、信心修行の事です、生きておる間は修行中じゃ、何の修行かというと、信心の修行の事、しかもそれは、丁度、学者が眼鏡を書けて本を読む様なものであろうぞい。 いくら読んでも読んでも、学問の世界というものは、きりがないだけではない、これが、学徳というものであろうかという様に、いわば学問の徳が身についてくる事になってくると、愈々それこそ、死ぬまで勉強する、本を読む事をやめない、こんな年をとってから、どうしてこんな本をいつまでも読まにゃんじゃろうか、勉強せんならんじゃろうかと云うのじゃない、もうそれが楽しうて楽しうてこたえんから、学問の世界が広がっていくのが楽しいのです。
それと同じだと、信心の修行もそうなんだ、だから、俗に申します、この世は苦の世、苦の世界だという風に、仏教的に申しますけれども、だからそう云う苦の世、苦の世界であってはならない、信心させて頂く者の、だから修行という事は、楽な事ではない、だから見方によっては苦労である。
けれども、その修行を身につけて行こうとして居る者の上には、それはもう苦労ではない、所謂、信心の修行というのは、御神徳を受けて、おかげを受けて、所謂おかげの世界が段々広がって行く事が楽しみなんですから、如何に一生が修行であっても、これは楽しい有り難い事だという事、また、神徳の世界が広がっていく事が楽しみ。
そこでです、そんなら、その修行中じゃとこう仰せられる、一生が修行であるならば、そんならどういう修行をさせて頂いたら良いか、また、どういう修行をさせて頂いたら有難うなるか、楽しうなるか、所謂有難うなり、楽しうなる様な、修行でなけれはいけない事なんです。
いつも、云わば世間一般で云う、例えば難儀、金の無い人が金で難儀をする、体の弱い人が病気で難儀をする、そういう難儀が一生続いたんではつまらん、信心修行が有難うなり、信心修行の徳が身について来る事になって来るとです、人間の幸せの条件と云った様なものを身につけて行くだけではなくて、それが限り無いという事、限り無く受けていかれるという世界。
昨日、午後から、久留米の佐田さんところのおばあちゃんのお母さんの霊様のお祭りをさせて頂いた、それに、親戚の方達の慰霊祭も併せてさせて頂いた、もう大変有り難い事でしたねぇ、神様にお届けを申しました、霊様にご挨拶をさせて頂いたんですけれども、頂いた事がね、「子供が助かりゃ、霊が助かる」と頂いた。
子供が助かれば親の霊は助かると、それはそうでしょう皆さん、例えば自分の子供が助かっていかなければ、親の安心はありません、もう子供がそこにおかげを頂いておるという事は、親がおかげを受けておる事と同じ事。
私がこうやって段々おかげを頂いておれば、私の方の両親はもう一切を安心して、有り難い、云うなら、毎日極楽の贅沢をさせて頂くと云う事なんです、けれども、私が体が弱い、私がいろんな難儀をしておる、もう見ちゃ居られん、親として。
だから、親がいかに助かっておる様であっても、子供が助からない限り、親の助かりは無いという事、これは、特別に、私は、佐田さんところの霊様の事に対する御理解なんですけれども、私共も、やっぱそういう頂き方を出来ない事は無い、ですからもう、霊様のお祭りが奉仕しよい事が、しよい事が、何故っておばあさんが助かっているから。
もう70幾つでしょうか、だから、私はお話を聞いて頂いた事ですけれども、例えて云うと、おばあちゃんが毎朝家族でお参りをして来る、そして、おばあちゃんのお届けの内容を、私は聞いて頂いた。
もう本当に若い時から様々な信心をして参りました、今から、考えて見ると、まあ信心のうちには入らない様な信心であった、どこにお尋ねに行く、どこにおうかがいいをする、どこにお願いをしてもらうと云う様な信心、佐田家は、昔から、仏教の云うなら、凝り固まりの様な家でしたそうですから、もうそれは、仏壇なんかは、どれだけ金がかかるか判らんと云った様なものであった。
中に安置してあった如来様なんかは、もう大変な値打ちのあるものだったらしい、月に1回は、親戚中のものが集まって、お坊さんを呼んで、まあここあたりで云う信心共励会、必ず、毎月それが行われるという程しに、10何代続いたいうなら老舗ですからね。
ですからそういう、いうなら宗教を持って居った、たまたまおかげを頂くきっかけが出来て、家族中のものが、信心させて頂く様になってです、それこそ今迄しておった信心をきっぱり、それこそそんなお仏壇でも、みんな貰おうと云う人に全部あげてしまった。
そして、おかげを頂いて段々お道の信心によって、人間が助かる、人間が変わって来る、商売が繁盛して来る、家庭が愈々円満になって来る。
そこでです、もう本当に金光教という有り難い宗教に御縁を頂いた事が、その中でも、それこそ、日本一と思わせて貰える合楽の教会に御神縁を頂いて、日本一と思われる親先生を頂いて………(これはおばあちゃんの心ですよ、私が云いよるとじゃないよ)、日本一の教会、日本一の親先生を頂いてです、佐田一家がこの様におかげを頂いていっておるだけではない、それこそ、日本一の息子を持ち、日本一の嫁を持ち、それこそ3人の孫達がです、もうどの孫というても、もう子供ながらに熱心な信心をする、もう云いどころの無い、非の打ちどころの無いほどしの、孫やら、嫁やら、息子達から大事にされる中に住まわせて頂いておるという事は、私ほどの幸せな者があるだろうかと云うのが、毎朝のお礼のお届け。
その内容、だから助かるという事はもうそれだけ、それが、限りなく続けられて行かなければいけない、と云うてそんなら、痛い事も、痒い事も、なあにもないかと云うとです、いろんな問題もあるし、痛い、痒い思いをする事もあるし、けれども、その中にあってです、私の様な幸せな者があるだろうかと思わせて頂ける信心を頂いておるという事。
そこでです、これからも愈々おかげを頂き、例えば、そういう風に子供がおかげを頂いておる、例えば、おばあちゃんでも、お母さんの霊様から見れば、娘である、娘がその様におかげを受けておるのを、その奉仕を今日は受けさせて頂く、お祭りを頂かせて頂く。
昨日は特別に式年という事ではなかったので、仏教で云う衣替え、お装束替え、はよかろうと云うてまあ親子3人話して休まれました。 そしたら、お夢の中にね、もうそれこそ大変みすぼらしい着物を着ておる人が出て参りましてね、ああこれはもう早ううちの着物を持ってきて、着せてあげにゃと云う様なお夢であった。
これはもう、目が覚めてから、あげな事云いよったばってん、装束替えはやっぱりさせて頂かにゃいかんと云うて、そういうお知らせを頂いて、お装束替えの料でお供えが有りましたから、それをお届けさせて貰いよりましたら、林田、と頂いた。
林という字は木を2つ田たんぼの他、信心は限りがないです、もう形式的に式年だから、とこう云う事じゃないです、霊も助かれば、霊もおかげを受ければ、それを奉仕する佐田さん一家のものもおかげを受けるという事、心が2つという事は、霊様と、それを奉仕する遺族の事、田と云うのは、ここで云うおかげの受け場という事。
もう本当にあの真心というものには、限りが無いという事です、もうよかろうこん位でと云った様な事では、神様は許されなかった訳ですねぇ、それで、私は成る程、おばあちゃんがその様に助かって居るという事は、そのまま、霊の親の助かりである、私どもが助からなければ、親は助からんのです。
一生が修行とおっしゃる、その修業というのはどういう修行でなからなければならないのか、本当に有り難い信心を頂いて、私の様な幸せな者はあるまい、と思えれる程しのおかげを受けなければいけんです、そこで、佐田さん一家の御信心を考えると、成る程成る程と合点が行く事でしょう。
それで、私は尚又つけ加えて申します、昨日、朝から、ここの指出部落で村寄りがあった、是非、大事な話しだから出席してくれ、と云う事だったそうですから、愛子が参りました、もう3時になっても帰りませんもの、4時からお祭りと云うのに、楽のご用がある、電話かけようかと申してましたから、いや、お祭り前には帰って来るじゃろうと云いよるうちに帰って来た、そして、実はこうこうだったと云うて、そのお話の内容。
もう兎に角、繰り返し繰り返しの話でなかなか纏まらなかったという、と云うのは、今度ここの教会の東側に道が出来る、あれがバイパス道路になる、4メートル幅の広い道になる、それで、市の市会議員の方も見えて、色々その説明会があった、そして、それを早く纏めて呉れという事であった、それで、ずっとこう測量が有っておるのにです、もう金光様だけはもう全然動かさないで、ほんのぎりぎりと、後でそれを聞かせて頂いてからもう何と有り難い事じゃろうかと思うんです。
6年前でした、あそこを村内の人達がもう、ヤアヤア云うてから、あそこを2尺なんぼか引かせられた、しかもあれだけの長い所ですから、それは随分馬鹿らしい事ですけれども、村内の人達が聞かんから、そういう風にさせて頂いた。
それは、教会の横だけはあんなに広いでしょう、上は狭いです、下も狭いです、だから兎に角、どげん考えても、まあ、法外な事を云いよるなあと思うのですけれども、神様のご都合と思うて、受けさせて頂いてあんなに横の川を広うなる位に、こちらが、2尺なんぼ引いてさせて頂いておったが、そんなら、5年後、6年後になったら、もし、引き下がっとらんじゃったら、2尺なんぼ、ずーっと削らんならんところじゃった。
神様の働きという事は、素晴らしいという事と同時に、私達が、どうしてそげな、私の方だけが、貧乏くじ引かんならんかと、どうして、私の方は、こう云う事になるですかという事はいらん、信心させて頂いておれば………
だから私は、佐田のおばあちゃんを中心にして聞いて頂いたんですけれども、おばあちゃんこれからはどうしてという事を愈々云わんで済む幸せなおかげを頂きなさいと、私が申しました。
神様がこうして信心を育てて下さる、神様がこうして修行させて下さる、よりおかげを下さろうとする神様の働きで、こうして私を育てて下さるという、もうどうしてと云う事を云わんで済む生き方こそ、愈々日本一幸せだと思われるおかげになって来るのだと云う、お話をした事ですけれども。
私は修行中じゃと、一生が修行中じゃという、こういう信心修行に焦点をおいたら、もう限りがない事です、しかも絶対間違いの無い事なんです、どうしてそげな事になったの、と云う事はいらん、一切神様のご都合じゃからと受けて行けばいいのだ。
今日、私、御理解に桜の花の信心より梅の花の信心をせよという、あの御理解を頂いたから、今日はその御理解かなと思うた、そしたら、この御理解37節、それで、生きておる間は修行中だという、その修行はです、所謂、桜の花の信心より、梅の花の信心の修行をさせて頂けという事で、私は、これは皆さん覚えておいて下さい、この御理解は、沢山頂きましたけれども、こういう御理解は初めてでした。
梅の花の信心とはね、御神徳を受ける信心、桜の花の信心はおかげ信心の事じゃと、おかげをパーっと桜の花の様に頂いても、それが散ってしまう、只、おかげおかげと、それは願えばおかげは受けるです。
昨日も、日田から、竹野さんがお礼に出て来た、もうお医者は絶対と云うほど、死ぬ事に決まっていたんです、もう、一か八かで、胃がんでしたがもう、手術をしました、所が、はじめから最後までもう、医者がたまがって、退院のおかげを頂いてから、歩いて帰ったそうですから、もう愈々たまがって、不思議な事じゃ不思議な事じゃと、お医者さんが云わっしゃったと云うほどしのおかげを頂いた。
けれども、自分自身には信心がない、只、妹が幸い信心しとったから、一生懸命お願いに参って来ておかげを受けた、それこそ、桜の花の咲いた様なおかげなんです、けれどもそれは必ず散る、そんなら梅の花も散るけど、散った後必ず実る、同時にです、梅の花は寒い時に辛抱しておるからとおっしゃっておられます様に、その信心辛抱という事が、修行ですけれども、その修行の内容は、どこに置くかと云うと、私の様な幸せな者があるだろうかと思えるほどしのおかげ、そこには、不平も出ら無ければ、不足も無い、不安も無ければ心配も無い、それが私の様な幸せな者がという、そんなら、その内容を、そんなら、私は今日、佐田さんところの今度の御霊様のお祭りにお話をした事を聞いて頂いたんですけれども。
私共の生活の上に、どうしてという事が無くなったら、幸せです、いやそれが判る信心が出来たら、どうしてこげな事が起こったじゃろうか、どうしてこう云う事になったの、あげん云うとったつにどうしてそげん事したの、という事はいらん、その時点でおかげおかげと受けて行く、または、それがきつい事でありながら、神様がこうして修行させて下さるという修行。
こうして研かせて下さる、こうしてより大きなおかげの受け物を作らして下さる、こうして神様が、御神徳を下さろうとする働きがあっておるんだという頂き方、そういう修行なのですから、もう1つの問題を乗り越えるたんびに、自分の信心の徳というか、信心の世界が、広がっていかないはずがない。
それが楽しいのである、丁度学者が年をとっても、眼鏡をかけてからでも本を読む様なものであろうぞい、と仰せられる様に、私共、そういう修行を一生楽しう、嬉しう、それこそ、有難うできれる修行なのです、根本姿勢というものが作っておかなければ駄目。
金光様にお参りしときゃおかげ頂くという、そのおかげだけでは、だから、桜の花の信心頂いてもすぐ散る、ですから、その信心が、所謂、梅の花の信心になって来なければ、その内容をです、自分で幸せをしみじみ感じられる、勿体無いという程しのおかげを感じさせて頂けれる、そこには不平も云わんで済む、不足も云わんで済む、どうしてという事を云わんで済む、こうしておかげが受けられる、それは判らない、所謂6年前は、どうしてわざわざ合楽教会の横だけがあんなに広う、川幅をせんならんのか、それは、云い訳をすれば通らん筈はない、下も狭い、上も狭い、それでもまあ、ああ言われるから、まあそうさせて頂いとこう。
そして、6年後になって初めて、なるほど、神様が村の人達を使こうて、そして、こう云うおかげを下さっておるんだと判る様に、必ず、どうしてと云わんでも、成る程神様があげんして、おかげを下さったなあ、あげんして、力をつけて下さったなあと云う事が判る信心。
あれもおかげであった、これもおかげであったと判る様になれば、本当の信者じゃとおっしゃる、所謂本当の信者を目指させて頂くところの修行でなからなければいけない、ですから、その修行は楽しいものである、成る程死ぬまで、この修行続けさせて頂く事が有り難いと云う事になるのですよね。 どうぞ。